オーナーへメッセージ
てぃーだブログ ›  家にかえる・・・ › たどり着く所へ

たどり着く所へ

2020年08月26日

知識を蓄えることはいいことです。
若い頃は、勉強で親に褒められることを一生懸命やってきました。
認められたい一心ですね。
承認欲求です。ある程度それはないと、向上心を失ってしまうし、
度を超すと、執着、エゴの曇りで抜け出せなくなる領域です。


学べば楽しいと思うようにさえなり、簡単に記憶も選択も可能でした。
その結果、県内有名進学高への入学も担任が太鼓判を。
首里へ希望を決め、越境ではありますが、そこへの入学願書と諸手続に入る頃に
親は無関心な態度をみせはじめます。
(家を出たい気持ちと学びへの意欲も失いたくなかったのでしょう)

多分、その場所にも惹かれたのだと思います。
好きな地域ではありますので。近くには首里城もあります。
しかし、その頃は首里城への関心はありませんでした。
勢いづいたエネルギーを学業で試したかったのでしょう(そう分析していた)


結局、ダラダラする親をみて、私は進学先を変更し、地元進学高へ行きますが、
ふてくされた私は、そこで問題を起こしてしまいます。

交互にやってくる担任教師を思いながら(すみません、先生)
生徒の「心」を改心させる、意欲を促すことができる教師の
「この差ってなんですか?」
と、その疑問は、自分自身にも反省とやる気を起こしてくれました。


上にあがりつつ、下も視る経験をさせていただき、
その度、下手な思い上がりをしたら、
落とされるお灸もあるのだと体験。

罰があたるということではなく、
自らの行為への報いとなって返ってくるのですね。

その表現や説法は仏教にも他にも沢山ありますし、
読んだだけで癒される、気付かされることは
よくあります。(あまり深く読んだことはないけど、心が軽くなったり、
腑に落ちたことは、潜在意識に言い聞かせ暗示しよう)

ただ、どんなに言葉や経典、真言に惹かれても
受け入れ、自分のオリジナルにしなければ
魂で受け取らなければ、意味はない。
頭でなく、心なんですね。
それと、勇気ある行動も(恥も外聞も捨て)



漠然とした思いだけの「首里」を諦め、
地元進学校へ変更したものの、
私はそこで、違う個性を発揮することになります。
ここからは、他人がみると「異端児」とレッテルを貼りたくなる
自由気まま、わがまま、群れから離れていきます。
その頃に、師と巡り会えていたら・・人生変わっていただろう
しかし、その経験があったから、のちの仕事に役にたつことも知ることになった。


その、「首里」ですが、数年前にちょっとした不思議がありました。
道に迷ったという、女性が訪ねて来られ
「この近くに拝所はどういうところがありますか」
よくある「拝所巡り」をしている方が、場所を探していると
思いました。

幸い、手元にまちづくりマップにそれが載っていたので
机の上に広げて、現在地と道案内を指で示すようにたどって教えました。

すると、その女性もマップ上の拝所を確認しようと
指を置いたら
私も彼女も電流が流れたように腰を抜かしてしまったのです。

驚いた私達は、互いに顔を見合わせ
無言のまま、互いの素性を確認するかのように
見つめあいました。


「実は、ここへ来るつもりではなかった。
近くを通りかかったら、
言われるまま、運転をしたどり着いた。
何でしょうか。私はここに何かを伝えにきたようです」

そんなことを言いましたが、それには驚かない私です。
何故なら、この地域の現状を神へお願いしていたところですから。


その女性は私を霊視して、いくつか助言をしました。
その最中に居あわせた人は目を丸くして
ことの成り行きを眺めていた。

続く

たどり着く所へ


今日もあなたが光の中にいますように



Posted by kiyoko at 07:33│Comments(0)
★連絡やコメントの公開を望まない場合は、そのように対応します。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。